最後の部活

今日、5年間所属し続けた部活を引退した。

 

人生を大きく変えてくれた部活だ。イラレや動画編集、HTMLが柔軟にできるようになったのもこの部活のおかげである。

 

最後の部活というのは人生最後の部活という意味である。大学に行けばサークルとかもあるが、これほど小規模で外界から隔離された”部活”という集団に所属できるのは高校までである。

 

だから悲しいだろうか。寂しいだろうか。

自分はベストを尽くせたとは思っていないが、ほとんど後悔はない。

 

だから心残りはない。

 

ただ一つ言うとすれば、変化が怖い。それに尽きる。もとには二度と戻れない、一歩踏み出せば不慣れで見慣れない世界。それが怖い。

 

人生は変化の連続である。死も変化である。単に寂しいとか、そう言うのではなく、何か、身内を亡くした時のような感覚なのである。

 

もう二度ともとには戻れない、もう二度と今まで通りの何気ない日常に戻れない。

部活はいつも”いつも通り”だった。中2で人間関係の拗れで本当に毎日生きることがしんどかったあの時は、部活が唯一の救いの場だった。そこだけはいつも通り。

 

だから、本当にいつも通りだった場所を失うというのは怖い。

 

悲しいのでも寂しいのでもない。これからの未来が怖いのである。

未来は不変 過去は可変

 常々、高校生としていろんな教職員方から「過去は不変、未来は可変」という言葉を聞かされる。その度に、心の中で「逆では?」と思ってしまうのである。

 

 過去というものはいとも簡単に書き換えられる。学校で習う歴史だってそうだ。日本と韓国では同じ歴史の中を歩んできたはずなのに、それぞれの国で都合のいいように切り取って教科書に記載されている。その気になれば、自分の履歴だって偽造できるし、嫌な思い出は自然と忘れてしまうことさえある。つまり、「過去」とは「都合のいいように変えられるもの」なのである。

 

 一方で未来はどうか。この前NHKスペシャルで情報社会における私たちのプライバシーについてを取り上げた番組を見た。その番組内では大変興味深い実証実験を行なっていた。ある人に一定期間、検索履歴や位置情報などのログを全て研究者に送信するスマホを持って生活してもらい、そのスマホの持ち主のことを全く知らない研究者たちがスマホから抽出されたデータを解析してその人物像を当てるという実験である。結果はどうであったか。おおよその年齢、住所、性別、職業、既婚か未婚かや性格までずばりと当てた。さらにもっと驚いたことに「2ヶ月後ごろに今の職を辞めて新しいことを始める」という予言をし、見事にその男性は2ヶ月後に転職したのである。本人は自分の意思で持って決断したつもりでも、データの解析から見えた人物像ではすでにそうなることがわかっていたのである。つまり、何が言いたいかというと、その人の生き様や人物像が外的要因によってガラリと変わることがない限り、全ての自分の意思決定や周りの環境の事象は遺伝子の想定内の行動や事象である、ということである。

 

 自分の行動や選択は運命だという考え方が以前から世界中にあったが、まさにそのとおりである可能性が高いのである。

 

 じゃあ私は運命に飲み込まれ続けながらこのまま一生を消費していくのかというと、そんなわけにもいかない。

 

 だから明日からもっとポジテティブでアクティブな生活を送る!......と決心したとしても、その決心もまた遺伝子の想定内なのかもしれない。

恵まれることは幸福か

 最近よく感じることがある。

 自分は恵まれすぎた、と。

 

 食にも学業にも友達にも困っていない、生活に何不自由ないこんな恵まれた環境の中で、ふと単調につづく生活がしんどくなって、逃げ出したくなることがある。

 

 恵まれすぎたことで、不自由ない生活にあらゆる面で麻痺してしまい、生きがいを失って行っている。

 

 恵まれることは果たして幸福なのだろうか。

きっと、恵まれすぎることは不幸なのだろう。

 

 私だって、突然事件が起こり、今まで通りの日常が当たり前でなくなった時、きっと初めて何気ない生活のありがたさを感じ、生きている、生きていくという感覚を味わうのだろう。

 

 幸せに生きることなんてきっと僕には無理だろう。

感情と向き合う

最近、自分の感情と向き合う機会が減少したように思われる。特に、

「悲しい」「寂しい」「怖い」

といった、マイナスの感情と向き合う機会が減った。

 

パソコンもスマホも手元にない頃......、つまりは小学生のころなんて、将来への不安や唐突の寂しさから寝るときは毎日複雑な思いを巡らせていた。

 

それが中学に入り、スマホやパソコンが手に入ると、唐突な怖さ、寂しさ、悲しさから、インターネットに現実逃避できるようになった。

 

いまでも時々寝ようと思ったらいろいろ考えが膨らんで、辛い感情になりかけるときがある。でもそばにスマホがあると、それだけで逃げてしまう。

 

だからだろうか、最近は自分が何者であるか、より一層わからなくなってきた。実態のつかめない存在になってきた。

 

かつては負の感情と向き合うことで強くなれたが今はどんどん弱くなってきているのかもしれない。

教育機関もビジネス

最近なにもかも信用できなくなる時がたまにある。

 

その中でもよく思うのが、進路選択の時に先生方が進めてくれる方向性は本人のためではなく、学校の進学実績のためなのではないか、と思ってしまう。

 

そんなことを言っては本当に私のことを思ってくれている先生には失礼すぎるのだが、その手法はビジネスの上では妥当だと思うのである。

 

ホワイト企業ならぬホワイトスクールならそんなことを思わずに済んだだろう。

生きる意味を求める意味

 この頃、「生きる意味」がわからなくて先生に聞いてみたことがあった。すると思わぬ返事がきた。「種の繁栄」。確かにそうだ。生物学的には種の繁栄こそが我々の生きる意味なのだ。

 

 しかし、生物学的に「生きる意味」が「種の繁栄」ならば、人生を全うしている人々の思惟思想は種の繁栄に関係しないから意味がないものであるということになる。つまり、「生きる意味を考えること」自体が無意味なのだ。

 

 また、生きる意味を生物学以外の、心理学、社会学、宗教の面から考えることもできるが、それらはすべて人間が作り出した言説に過ぎない。こうして生きる意味を探していること自体が、どんどん生きる意味の本質から遠ざけているのではないだろうか。

 

 現に、生きる意味の本質を私は見失っていまった。昔の人々も、こういったことをつきつめて出ない答えを出そうとした結果、ある種の恐怖に陥って宗教というものを発明したのだろうか。

 

 意味のない(意味の見いだせない)生活はこれからも続きそうだ。

知らぬが仏

 僕は周囲のどんなに仲の良い友人誰一人にでさえ言ったことのない大きな秘密を抱えて生きている。その秘密をここでも書くつもりは全くないのだが、秘密の内容は本当にしんどいのである。これまで僕を人間関係や生活面、勉強面で苦しませてきた諸悪の根元なのである。

 

 それが直接的に自分を苦しませている可能性も多いにある(というか基本はそうとしか考えられない)。

 

 だが、その事実を知ってしまったことで自分の中に自分に対するバイアスがかかった気もするのだ。メンタル的に、自分の限界を作り上げてしまったような気がするのだ。防衛本能だろうか。

 

 とりあえず、その事を知らない方が、劣等感なく生きていけたのではないかと思わなくもないのだ。

 

 最近、受験が刻一刻と迫ってくる中で、自分の実力や限界が試されることが多くなっった。その度に、そう思う。

 

 もちろんその事を知っていたおかげで今まで失敗を回避することもできたし、自分と向き合う時間も増えた。それは感謝している。

 

しかし、やはり知ってしまうということは、結果的にある種の限界(もしくは限界に見えるただの壁)を覚えることとなってしまった。

 

将来自分に子供ができた時、もし万が一子が同じような境遇にいたら親としてどうすべきなのだろうか。

 

結論はおそらくでない。