未来は不変 過去は可変

 常々、高校生としていろんな教職員方から「過去は不変、未来は可変」という言葉を聞かされる。その度に、心の中で「逆では?」と思ってしまうのである。

 

 過去というものはいとも簡単に書き換えられる。学校で習う歴史だってそうだ。日本と韓国では同じ歴史の中を歩んできたはずなのに、それぞれの国で都合のいいように切り取って教科書に記載されている。その気になれば、自分の履歴だって偽造できるし、嫌な思い出は自然と忘れてしまうことさえある。つまり、「過去」とは「都合のいいように変えられるもの」なのである。

 

 一方で未来はどうか。この前NHKスペシャルで情報社会における私たちのプライバシーについてを取り上げた番組を見た。その番組内では大変興味深い実証実験を行なっていた。ある人に一定期間、検索履歴や位置情報などのログを全て研究者に送信するスマホを持って生活してもらい、そのスマホの持ち主のことを全く知らない研究者たちがスマホから抽出されたデータを解析してその人物像を当てるという実験である。結果はどうであったか。おおよその年齢、住所、性別、職業、既婚か未婚かや性格までずばりと当てた。さらにもっと驚いたことに「2ヶ月後ごろに今の職を辞めて新しいことを始める」という予言をし、見事にその男性は2ヶ月後に転職したのである。本人は自分の意思で持って決断したつもりでも、データの解析から見えた人物像ではすでにそうなることがわかっていたのである。つまり、何が言いたいかというと、その人の生き様や人物像が外的要因によってガラリと変わることがない限り、全ての自分の意思決定や周りの環境の事象は遺伝子の想定内の行動や事象である、ということである。

 

 自分の行動や選択は運命だという考え方が以前から世界中にあったが、まさにそのとおりである可能性が高いのである。

 

 じゃあ私は運命に飲み込まれ続けながらこのまま一生を消費していくのかというと、そんなわけにもいかない。

 

 だから明日からもっとポジテティブでアクティブな生活を送る!......と決心したとしても、その決心もまた遺伝子の想定内なのかもしれない。