他者という存在への依存

 自分は主体性のない人間である。

 

 自分に主体性がないとはどういうことかというと、何をやるにも何を決めるにもそのほとんどを外的要因としているということだ。私の場合は進路のことや部活のことなど、様々なところで決断に迫られることが何度もあったが、それらの選択の大半を誰かの思考・言動・行動に委ねてきた。自分では結論が出せないから(もしくはそう思い込んでいるから)。

 

 そんなこともあって、私は常に他者(他人も含む)という存在に依存して生きているのだと実感した。

 

 勘違いしないでほしい、これは対人依存ではない。別に孤独を恐れているわけでもないし、時と場合によってはむしろ孤独を選ぶこともある。

じゃあ何かというと、他者という「存在」に依存しているのである。依存しているのは存在。さっき言ったような「孤独」だって、「他者」という概念の上で「孤独」が成り立つのであって、「他者」なしに「孤独」は生まれないだろう。

 

 他者という存在への依存を強く実感させられるのは長期休暇である。私の通う学校は全寮制のため普段は24時間ずっと友達や先輩、後輩と言った他者が存在する。それが長期休暇になると、同じ学校の生徒は全国からきているため、実家付近で気軽に遊べる友達がそうはいないのである。そうもなれば、あとは自室に引きこもってしまうだけなのである。

 自室でただ一人、親も仕事、兄も大学に行っていて、家に一人でいる時なんかは特にそう......他者という存在が全くないのだ。そんな時、自分は自分が何かわからなくなる(他者があれば自分が何者か分かるというわけでもないが、他者がないとそれがより一層深く感じるのである)。そんな時はやりたいこともなく、ボーッとしてしまう。体も起き上がるのがしんどくて昼食すらも億劫。何もかも無気力になるのである。

 まさに、自分という「キャンバス」が真っ白の状態である。「私」を作り上げているのはこの真っ白なキャンバスに色を加える「他者」という「存在」なのである。

 

 果たしてこんな人任せな生き方が楽しいのであろうか。

 

 自分の中に自分は自分であると言い切れる確たる証拠が見当たらない。いつも思う、自分は何者だろうかと。 

 

 逆に主体性のある人間になればこれらは解消されるのか。

 

 それもまたわからない。

冬は悩ましい時期。

 冬。

 毎年のように、特に12月後半から1月、2月あたりは色々と悩むことが多くて辛い時期となる。

 

 この原因ははっきりわかっているわけではないが、私生活面から考えれば、年越しから3学期にかけてというのは変化が目まぐるしい時期だから非常に気持ちが疲れるというのと、科学的な面から考えれば、夏に比べて日照時間が短いことや、運動量が減少すること等も要因の一つだと思う。

 

 実際「季節性うつ」なるものがあって、私は医者ではないから特に詳しい事を書くつもりはないが、やはり日照時間や運動量の不足が原因であることが多いらしい。

 

 特に今は、何不自由なく生活できているはずなのに普通に生活することがしんどくて、何事にも手のつかない事がよくある。

 もっと言うと、生きてる事がしんどいと感じる状況に陥る事がしばしばある。

 

別に私はネガティブなわけではないと思っている(少なくともかつての自分よりかは)。だから人生を悲観しているわけではない。悲観ではなく、諦観してしまっているのだろう。

 

 最近は進路のことや人間関係のことで悩みの種が大量にあるが、それら一つ一つに悲観しているわけではなく、「どうせみんないつかはこの世を去るというのに、それらの選択が何になるのだ」などと思ってしまうのである。

 

 それらの選択を誤って、仮に本来より早くしてこの世を去ってしまったとしても、「それはそれで一つの人生」としか思わない。

 

 だから正直いつ死んでもそんなに思い残す事がない気がするのだ。私はまだ若いから何も見えてないし、何も知らない。だからこそこんな事が言えるのだろうが。

 

 だからと言って別に自死しようとも思わない。それは家族、友人、先輩......、いろんな人に迷惑をかけるからだ。だがこういう事を考えると、自分の生命すらも他者という存在に依存した生き方をしているのだなぁと改めて悲しくなる。

 

 昨日から五木寛之氏の「大河の一滴」を読んでいるが、納得するところが非常に多い。

 

 悩ましい時は、自分の心情から逃げずに、そういう本を読んだり自分の性格についてインターネットで徹底的に調べてみたりして、自分と向き合いつつ色々と思索にふけるのが一番よい。